水上の仲間にも潜水艦の仲間にもきょうだいにすらも名前をあまり名乗ってはならない、うっかり自己紹介する癖がついちゃうからね。名前を知られないことを誇らねばならない。艦長の私室をうらやましく思わないこと。沈むのと聞かれたときは潜るのと訂正すること。悠々とベッドに寝ることになれるような潜水艦になってはならない。魚雷と一緒に寝ることに早めになれること。畳の上で死ぬことに憧れてはならない。陸に上がった河童になってはならない。泣いてはならない、海の中では無意味なのだから。行先もその期限も言えない、帰るべき場所、家族のいる人間たちに憧れてはならない。いつまでいなくなってしまうの、そう誰にも聞かれないことに感傷をおぼえてはならない。いつまでいなくならなければならないの、そう誰にも言えないことに悲しみを抱いてはならない。人間に恋してはならない。それは破滅への道である。そして愛したとしても自分の救いのために彼らに刃を向けてはならない。破滅の道を行けばさいごお前の心臓は破れ、海の上に泡となって浮かぶであろう。
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引用『歴史の風景』
私たちは――ローマ人のように――自らの記念碑を後に残した社会も、――多くの農民のように――記念碑を残さなかった社会も、描き出す。私たちは記念碑を持つ社会をその自称する偉大さから解き放つ。私たちは彼らがどのように見られたがっているかということと、実際に彼らがどうであったかということとを混同しないように努める。そして私たちは記念碑を残していない人々を、その結果として他人から、あるいは自分自身から、押しつけられた沈黙から解放するように努める。
したがって私たちは叙述している人々や社会を、別の時代や場所から持ち込まれた判断の専制から解放しなければならないということになる。それではもし歴史の重みが現在と未来にこれほど重くのしかかることがあるとすれば、歴史家の仕事の一部がその重みを解除しようとすることにあることはたしかである。すなわち、たいていの抑圧の形態は構築されたものであるから脱構築されることが可能であるということを示すこと、現在あるものが必ずしも過去にあったとは限らず、したがって未来にあるとも限らないということを示すこと、である。この意味で歴史家は社会批判者でなければならない。
『歴史の風景』
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二郎の見なかったもの
堀越二郎の醜い飛行戦艦、下級生を苛める不良の上級生、多くの三等車客、震災の炎と暴力的風景、旧式の校舎、美しい骨を持たない肉豆腐、寝台車に乗れなかった貧民の野宿生活、銀行の取り付けのある不景気、会社のみみっちい礼儀に礼節、新人への洗礼、牛が航空機を運ぶ後進性、航空機を見に来た陸軍軍人、機が本調子でないこと、落下傘で辛くも逃げ出したパイロットの命の無事、既に壊れた1号機の残骸、夜親を待つ少女と子どもと国家の貧しさ、食わせられたはずの天丼とシベリアという善性、本庄の独逸での劣等感、かつて菜緒子でなくお絹の幻影を見たという事実、カストルプの示唆する世界の破裂、新聞に書かれた上海事変、日本が本当に近代国家だったのか、結核で倒れた菜緒子の苦、重役、煩い海軍軍人、愛情ではなくエゴイズムではないかという黒川の指摘、妹の叱咤、重慶爆撃、全体を覆う死と死体と多くの犠牲を見ることからの逃走があり、それは菜緒子が二郎の眼鏡を外して「山に帰る」ところ、美しいところだけ見てもらいたかったことで愈々極まる
→また1機も帰って来なかったのでありやはりそこには人間の生はないように思える
→とはいえ二郎は最後の航空機の成功(航空機の技能的にも、国家や軍の期待に応えた面でも)を直視しておらず、遠くで何かの気配を感じてそれを見ている、おそらく菜緒子の死を見つめている -
語り口
- 石牟礼道子の語り口という話 例えば岩波新書やNF文庫の「である」「であった」とか帝国主義とか資本主義とか蘭印作戦とか、後世の、現在の名詞や単語や標準語で語るには語り切れない風景、それこそ「人と人とが、殺し殺される関係性のなかに投げこまれる戦場という殺戮の現場」「巨大なキノコ雲の下で生起している数々の出来事」「夫や息子の死を「名誉の戦死」として受け入れさせてゆく時代と社会の巨大な力」「「敵の顔」の中に「人間の顔」を見出してゆくこと」(『アジア・太平洋戦争 シリーズ日本近現代史6』)の出来事と、その風景が、そのような構成の正規の文章で形容されつつ、だからこそその実際が語りえない状態、はあるんだろうか
- 『日本軍兵士』の南方の作戦の概要たとえば飢餓に侵された戦線など、と、例えば『野火』のような兵士がぼんやりフィリピンの青空を見あげて放浪している風景、というものは同じものを語っている、にもかかわらずその情景は違うじゃないですか
- 「五月一二日には、アリューシャン列島のアッツ島に米軍の一個師団が上陸を開始した。約二五〇〇名の日本軍守備隊は、激しく抵抗したが、優勢な米軍に次第に圧倒されて、二九日には最後の突撃を行ない全滅する」(『アジア・太平洋戦争』)の行間と言い得る風景のようなものは、結局フィクションや詩歌で埋めるしかないのかな…と最近は考えはじめている
- 標準語というか現代語ですよね 現在の日本語 だって彼らは「マジ」とか言わないじゃん アッツ島マジヤバイとか 「マジ」とか「ヤバい」とかの地平線にいないんですよ
- 「マジ」とか「ヤバい」とかの地平線にいる私たちがいない彼らの話をする時に、言葉を変えていく、せめて工夫すべきかというはなしですよ
- 『日本軍兵士』の南方の作戦の概要たとえば飢餓に侵された戦線など、と、例えば『野火』のような兵士がぼんやりフィリピンの青空を見あげて放浪している風景、というものは同じものを語っている、にもかかわらずその情景は違うじゃないですか
- 石牟礼道子の語り口という話 例えば岩波新書やNF文庫の「である」「であった」とか帝国主義とか資本主義とか蘭印作戦とか、後世の、現在の名詞や単語や標準語で語るには語り切れない風景、それこそ「人と人とが、殺し殺される関係性のなかに投げこまれる戦場という殺戮の現場」「巨大なキノコ雲の下で生起している数々の出来事」「夫や息子の死を「名誉の戦死」として受け入れさせてゆく時代と社会の巨大な力」「「敵の顔」の中に「人間の顔」を見出してゆくこと」(『アジア・太平洋戦争 シリーズ日本近現代史6』)の出来事と、その風景が、そのような構成の正規の文章で形容されつつ、だからこそその実際が語りえない状態、はあるんだろうか
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世界のさみしさ
貨物や旅客を運ぶためにたくさんの美しい船が造られた世紀をご存知でしょうか。
20世紀前半まではまだ旅客手段としての航空が発達しておらず、海を越えた国と国を行き交うには船を使うのが一般的でした。船会社の所有する船に乗り、外国へと渡っていくのです。
たとえばアメリカに行くとすれば、あなたは荷物とパスポートを持ち、横浜で貨客船に乗り海を渡ります。出航の時には皆の別れの挨拶、歓声、笑い声、声、声が混じりあい、汽笛と歓声が響き、五色の紙テープが投げられて、別れを惜しむように後を引くのです。段々と陸は、祖国は遠ざかっていきます。海の色は段々と深くなっていくでしょう。あなたは船上からそれを眺めているはずです。そして船はシアトルやサンフランシスコへと向かうのです。あなたは東北の農家出身の四男で貧しく、亜米利加あるいは南米で食いしのごうとしている日本人移民で、もう二度と日本という祖国に帰って来ないかもしれないし、大日本帝国の外交官として亜米利加合衆国に渡り、かの国を牽制し、逆にかの国の国力を見せつけられて、内心舌を巻きながら帰ってくるのかもしれません。
船は国と国とを行き交うのですから、国に属す船は国家の船、国家の顔でした。船のサービスすなわち国の礼節、船の清潔さすなわち国の秩序たりえるのです。日本国の、大日本帝国の船は親切で丁寧で洗練されていなくてはいけません。またその船客、一等船客もそうです。それらには著名人も多かったと言います。例えばチャップリンは日本郵船の船を好みましたし、船には皇族が乗ることもありました。
しかし語るべきもう一つの主役は多くの三等船客の民衆たちでしょう。亜米利加や南米への移民として彼らは船に乗りました。美しい船に乗り美しく旅立ち、果実もまともに実らないような開拓地に行くこともありました。差別と何も育たない畑しかないような異国でやっていくしか生きる方法がなかったのです。だってあなたは不作続きの農民の四男で、姉たちは娘売りに売られていて、働き口も耕す畑も日本には無いのです。この国は貧乏で、人だけが多かったのですから。また、三等船客にすらなれないような、船底に隠れて海を渡る人びとも居ました。からゆきさんと呼ばれる女性たちです。女たちはひそかにふねに乗り乗せられ、朝鮮やシンガポールなどに運ばれて行きます。一つは誘拐や嘘で騙されて、一つは食べるにはそうするしかなかったので。あなたの住んでいる土地は人が多く、畑はやせ細っていてやはり貧しかったのです。のちにからゆきさんという集団名で呼ばれることになるあなたは、人目を避けてその船に乗るのです。船底で溺れようが機関室近くで焼け死のうが女たちは船底から異国へと渡りました。渡された、という方が適切かもしれません。あなたは甘言で騙されて娼婦になるのですから。華やかな世界と共にあった、これもひとつの地獄の情景でありました。あなたを乗せるその船はなにより美しくなければなりません。国家の顔なのですから。離別への装置なのですから。旅立ちの美しい瞬間の舞台なのですから。あなたを祝福する五色のテープが、船が美しくないわけがない。たとえ向かう先が地獄だろうがその美しさは誰にも犯せない。
またそうでなくとも無邪気に人間たちは船を美しく造りたがりました。ふねは人間の道具であり、愛し子だったのだから、というのが私の見解です。設計家のあなたはわが娘を美しく造りたかったはずです。そして生まれたその内装の美しいこと、はじめは西洋に追いつかんとし、基本を西欧式として造られました。細部は髙島屋や川島織物に頼むことがあっても、全体のデザインはやはりフランスやイギリスに注文することが多かったのです。たとえば横浜に現存している日本郵船の貨客船氷川丸は横浜船渠で1930年に竣工、そのアールデコ調の内装はフランスの工芸家マルク・シモンによる設計です。
氷川丸の竣工から数年ほどのち、戦火が近づき国威の高揚に至っては、モダニズムを孕んだ日本様式を発露せんとして貨客船の内装が造られました。日本人の船は日本式でないといけない!あなたは大日本帝国の臣民で、視察や洋行に行くために日本郵船の誇る浅間丸に乗ります、祖国からサンフランシスコに行く時に、その船の内装が英国式格調の高い古典的なデザインではまったく駄目なのです。あなたはその美しさに見惚れながら、失望して怒りを表明するでしょう。国土の延長たる船で!なんたる国辱!すでに日本は一等国であり、西洋なんぞに随従しているわけではないのですから!
それでも戦火がちらつき見える世界で、日本人と日本人、日本人と外国人、外国人と外国人は船上で友好を結びました。演奏会やダンスパーティーや赤道祭や船上運動会などのイベントもありました。そこは一つの文化の舞台で、秩序と優しさのある平和な世界でありました。
あなたは祖国と諸外国との関係に漠然と不安を抱えながら、それでもただ一度だけの今を想いワルツを踊ったでしょう。あなたが何人で相手が何人だろうがここでは関係ないのでしょう。いまここだけなら世界平和の境地なのに、とさまざまな矛盾を無視しながらあなたはそう錯覚したはずです。
茫漠と漂う爛熟した幸福と、ちりばめられた奢侈な調度品、海の上だからこそなおさら祈らざるを得なかった素朴な平和と友好の念、海を越えた友情の握手――そんなやさしい世界がそこにはありました。あなたは船長で、著名人と並んで写真を撮ったはずです。あなたはスキヤキ・パーティーという日本船の奇祭と箸に戸惑ったでしょう。あるいはあなたはこれから終の棲家となる南米での礼儀や常識の教育と講義を受けたはずです。あなたの夫はあなたの写真を見てあなたを自分の花嫁に迎え、あなたはまだ実際にはまだ見ぬ夫に不安を募らせているでしょう。あなたは船酔いに悩み、あなたは来たるべき新天地に心を寄せ、あなたは置いてきた老父母を想い、それでもあなたは新しい地で生きていくことを決意しました。船は海の上の社交界であり、新しい門出の地であり、祝福でした。
あなたが愛した千紫万紅を彩る客船文化は花弁零れんばかりに開花していたのです。そしてあの第二次世界大戦が始まります。
たとえばあなたが戦場へ行くとすれば、ふつうは赤紙で徴兵され、徴兵検査を受けて、合格して、万歳三唱で見送られて――となるかもしれません。そしてあなたは千人針と神社のお守りをひそかに胸にしまい込み、兵員輸送船へと乗るでしょう。そうです、たとえば、この兵士を戦地へと送る輸送船です。
とりわけ南洋に広がった太平洋戦争では、兵隊や物資を運ぶたくさんの船が必要とされました。またその船を運航する人員が必要とされました。徴用船とその船員です。その両者は艦艇と軍人とは違い、軍そのものではありませんでした。運ぶだけの軍属であり、戦闘を行うわけではなかったのです。だからこそ戦場と軍隊のなかでは身分の保証がされ得ず、戦地ではなおさら悲惨な状態へと転落していきました。あなたは赤紙で徴兵されたのではなく、軍属として輸送船ともども徴用されたかもしれません。あなたはフィリピン海沖での輸送任務中に米潜水艦の魚雷で船ごと沈み、仲間をその後の機銃掃射で失い、あるいは溺死で、餓死で、兵士からの虐待で失うか、あなた自らがそれで死ぬのです。あなたが戦場で軍隊のなかで軍人として秩序たらしめられているのと、戦場で軍隊のなかで軍に雇われた軍属であるのとは地位と権威が変わってくるのです。そしてそれは大きく運命を分かちます。もちろんあなたが兵隊であってもあなたには別の地獄があり、悲惨な状況であるのにまったく変わりはないのですが……。
海軍軍人よりも多くの割合で人員が戦死した、という軍属たちの怨嗟の声は、その華やかであったはずの叙述詩的世界からの転落とその戦地との落差に鮮やかに彩られ、殊更に悲惨に感じられます。
だからこそ私は戦時下の海運というものをえがこうと思いました。
美しかった生や美しくなるはずだった未来が戦争という災厄により無残にも失われ、灰色の徴用船や特設軍艦へと装いを変えられて戦場という火の海の中へと向かう元貨客船や元貨物船など(またその乗組員たち)は、私に越境文学的な離別を容易に彷彿とさせました。
それを悲劇と捉えて消費するそこに一種の危うさがなかったといえば嘘になります。が、それでも私はそれを自分の命題として受容したのです。この世界を、世界の情景を描かねばならない、という想いを抱きました。
この物語は、無名の多くの人間たちが交差することで成り立つ群像劇でした。
それは企業擬人化という手法で、海運会社の「何も無くなった状態」を描くときに、唯一描けるのが人間模様だったからです。
成熟した文化やそれを担ったわが船たち、それらが戦禍で失われた状況にあったとき、それでも手元に残ったのは人間たちでした。彼らは、あなたは、生を謳歌し、怒り、嘆き、喜ぶのです。全てを失った企業にあった、人間という淡い希望と重さが描かれています。
そしてだからこそ、描かれなかったもの、残らなかった人間たちや船の影が本作を通してちらついているのです。あまりに美しかったものの喪失と、それとの離別の世界。
少しでもあなたにこの世界の”さみしさ”が伝わればいいと思うのです。 -
日本郵船歴史博物館閉館(移転)雑感諸々
日本郵船歴史博物館を初めて訪問したのは二〇一八年前後だと思われる。艦船を追いかけ始めたのは二〇一二年末の頃だったから、そこから数えれば五年も後のことだった。出不精とはいえ、関東の艦船オタクにしてはこの博物館に対してノーマークだったといえる。
恥ずかしながら正直に告白すると、私にとっての「ふね」とは長らく「海軍の艦艇」のことであった。
それは戦史・ミリタリー趣味から始まった「艦船の追いかけ」だったためでもあるし、軍隊という歴史では良くも悪くも著名な存在に対して、海運会社やその仕事や担った文化的価値というものは「ふねの歴史」に関わる存在としては地味なものだったからだ。その「地味」という評価は何かしらの侮蔑や蔑視や軽視ではなく、単純な無知に由来する「初心者には受信できないマイナーな情報」という意味での「地味」だった。
歴史という大河にまったく詳しくなく、なぜその艦が必要とされたのか、軍艦とは何か、海軍の由来は、海軍の意味は、国家の矛と盾としての軍隊とは、当時の時代の日本の様相は、世界の海とは……。あるいは、海運会社が文化面で担った責務とは?貨客船で行いたかった生業とは?そのような世界の展望や横断した知見には程遠い視点で、個々の艦の知識というよりは情報ばかりを己のなかで肥大させていた(この空母の排水量は、艦載機は云々……)。
さらに私の言う「海軍のふね」といえば軍艦――戦艦や航空母艦、巡洋艦――であって、特設監視艇や病院船、あるいは海防艦などでは決してなかった。後者はいわんや無知な人間にはあまりに「地味」すぎた。私にとって艦は美しいものであり、美しければそれで十分で、その艦の基本情報と周りとの関係性が多少分かればそれでよかったのである。戦闘は戦争の華である。戦闘艦は美である。海上護衛などはいくらかの人間が言うように意味も、存在も、実際の任務自体も、ことごとく文字通り地味であり、同時に上記の意味でも「地味」で初心者には理解ができない複雑怪奇なふねの運用方法だったのだ。
そうしてふねの浅瀬で遊んでいるうちに五年が経過した。
何をして海上護衛や徴用船、特設艦船などに興味を持てたのか、日本郵船歴史博物館の初訪問の時期と同じく覚えていない。しかし当たり前だが五年も経過すれば浅瀬も浅瀬なりに広く深くなる。航空母艦隼鷹(貨客船橿原丸が戦時体制により改造され造られた艦)などから入ったような気もするし、あるいは艦艇種別一覧などを読み解いていけば特設艦船など容易に見つけることができよう。病院船などは存在自体は知っていた。特設病院船という日本海軍が元民間船舶に振った種別を私が認識していなかっただけなのだ。
またこの頃になると海軍や艦艇の濃紺深き実直な文化ではなく、千紫万紅を彩る客船文化に目を奪われるようになった。それは地味とは程遠いものであった。茫漠と漂う爛熟した幸福とちりばめられた奢侈な調度品、海の上だからこそなおさら祈らざるを得なかった素朴な平和と友好の念、海を越えた友情の握手――そんなやさしい世界がそこにはあった。
海軍軍人よりも多くの割合で人員が戦死した軍属たちの怨嗟の声は、その華やかであったはずの叙述詩的世界からの転落とその戦地との落差に鮮やかに彩られ、殊更に悲惨に感じられる。
五年を経た私は、海軍の戦闘での敗北のみを悲劇と捉えるほどに軍隊的あるいは単細胞的な美学を持てなくなっていた。
だから海運というものに活路を求めたのは一種の必然だったかもしれない。美しかった生や美しくなるはずだった未来が戦争という災厄により無残にも失われ、軍艦へと装いを変えられて戦場という火の海の中へと向かう元貨客船や元貨物船など(またその乗組員たち)は、私にポストコロニアリズムや越境文学的な離別を容易に彷彿とさせた。それを悲劇と捉えて消費するそこに一種の危うさがなかったといえば嘘になるが、それでも私はそれを自分の命題として受容したのだった。
日本郵船歴史博物館の移転は寂しい。
再開館は二〇二六年予定らしく、その間に展示も図録もない。移転は新築の高層ビルのなかである。今のような天井が高く影の濃い文化財ではない。どうなるのかさっぱり予想がつかない。
それでも建物も博物館も無くならないだけ有り難いのかもしれない。とりあえず私は二〇二六年まで生きのびねば。
日本郵船歴史博物館と日本郵船に、長い感謝を捧げたい。
2023.3.28記